1月号でもお伝えしましたが、2008年11月、BC州在住の3人のカナダ人が日本政府から旭日中綬章を受章しました。これは、カナダと日本の相互理解を深めるために貢献した人々に与えられる非常に価値のあるものです。
今回はその受章者の1人、バーナード・サンジャック博士をご紹介します。
無類の日本好き博士の
「ゲイシャ、キモノ」から旭日中受章受章まで
モントリオール時代
サンジャック氏は、1928年、モントリオールで中学の数学の教師であった父と子供好きの母の間に生まれ、4人兄弟の長男として育ちました。非常に厳格な父親でしたが、子供たちがある程度の年齢になると自分でものを決定する自由を与えました。自分でどうしたらよいかを考える能力を父から教えてもらったわけで、それは完全ですばらしいしつけだったとサンジャック氏は言います。
しかし、65歳の退職と同時に4人の子供たちがひとり立ちして家を出たため、仕事と家族が全てだった父は、両方を同時に失って絶望的な状態に陥ったそうです。
高校を卒業するとサンジャック氏は、モントリオール大学へ進みました。勉強もスポーツも好きで、女の子たちともよく遊んだ非常に楽しい学校生活でした。大学院で哲学の修士も取得しました。
その頃、少し大学に飽きて何か新しい冒険をしたいと思いはじめたサンジャック氏は、新聞で東京の語学学校が英語とドイツ語とフランス語の教師を募集しているという記事を見つけてます。さっそく電話をかけるとすぐに採用が決まり、日本に行くことになりました。その頃、まだ日本は戦争直後で貧しく、サンジャック氏は日本については何も知りませんでした。知っている言葉はゲイシャとキモノだけだったそうです。
汽車でモントリオールからバンクーバーまで来て、それからシアトルに行って貨物船に乗りました。船底は米軍基地への資材、上には日本へ運ぶスクラップメタルを積んだ船で、船客は4人しかおらず、毎晩船長と他のお客さんたちとお酒を飲んでは話をする、楽しい船旅でした。
初めての日本
初めて横浜を見たときは、懐かしい気持ちになったそうです。心は新天地でせいいっぱい頑張ろうという希望に満ちていました。
このときはドイツ語、フランス語、英語を3年間教えました。一方で余暇を利用して上智大学大学院に入り、日本の宗教と哲学を学びました。 また、日本語を勉強したかったサンジャック氏は、横須賀の米軍の潜水艦基地にあった兵隊のための日本語学校にも通いました。この学校にはそれまで生徒がおらず、サンジャック氏が習いに行く先生は大変歓待してくれました。その学校には2年間通いました。
それからサンジャック氏は、文部省から中学と高校で社会学と英語を教えられる資格を得て、鎌倉の中学で1年間英語を教えました。当時学校の先生は神様のように尊敬され、生徒たちも礼儀正しく、親たちも先生を拝むような態度だったそうです。生徒とキャンプに行ったり、一緒にお寺に泊まったりしてとても楽しく、実際にはそこで多くの日本語を覚えました。
このとき、カトリックだったサンジャック氏は日本で自分の信仰を失ったと言います。日本には特別の宗教がなく、監督する神がいないのに、人々は親切で、道徳的で、礼儀正しく、どこよりも安全な国だということに衝撃を受けたのでした。
アメリカ、パリ、ギアナ、バンクーバー、そして再び日本へ
その後、フォードファンデーションから奨学金をもらい、ワシントンのジョージタウン大学で言語学の修士をとります。
このときフランスの著名な言語学者に会い、誘われてパリに行きました。パリ大学では言語学とアジアンスタディーで博士号をとりました。奥様のマーガレットさんはそのときの学生の1人だそうです。ちなみにマーガレットさんは考古学で博士号を取得しています。
まだマーガレットさんが博士課程を終っていなかったとき、フランス領ギアナに行くようにフランス政府に依頼されました。当時ちょうどアルジェリアがフランスから独立したのですが、そこにサテライト基地があったので、かわりにギアナに基地ができるかどうか調べる必要があったのです。
二人はアマゾンのジャングルに2年間住みました。調査は順調に進み大きなサテライト基地もでき、引き続きそこにいて欲しいと頼まれましたが、それ以上そこにいる気持ちにはなりませんでした。気候が厳しい上に虫やヘビが多く、とてもずっと住みたいとは思えなかったのです。
結局、アメリカとカナダの大学に履歴書を送り、マーガレットさんはSFUで、サンジャック氏はUBCで教えることになりました。
今から40年前のことで、当時バンクーバーは小さく、空港はガレージのようだったそうです。
UBCで言語学とアジアンスタディーを教えていたとき、ある教授を通して愛知淑徳大学の学長を紹介され、給料をUBCの倍出すといわれて、とにかく半年だけ行ってみることにしました。それがなかなかおもしろかったので、UBCを辞めて淑徳大学に行くことを決意します。当時カナダは定年が決まっていなかったのですが、UBCは65歳と決まっていました。しかし定年を待たず、サンジャック氏は日本に向かいます。1988年のことでした。
愛知淑徳大学では、異文化コミュニケーションと社会言語学の2つの学部を作りました。
以後15年、サンジャック氏は日本にいることになります。
サンジャック氏と日本
サンジャック氏は、通算25年を日本で暮らしました。
その間に、富士山頂に3回登りました。それは素晴らしい体験でした。2度目には、山頂に立った人が登ってくる朝日に向かって拝んでいるのを見て感動したそうです。
サンジャック氏はまた日本の田舎の温泉が大好きです。その洗練された美と気持ちのよさはすばらしいと言います。
一度、友人と、後から来た新婚夫婦と4人で、混浴露天風呂に入ったことがありました。新婚の男性はお酒を載せたお盆を浮かべており、4人で長い間話をしました。顔は寒くて身体は温かく、素晴らしい気分だったそうです。ところが次の日東京に戻り大学で講義をするとき、声がかすれて出ずに休講にしたという思い出があるそうです。
「日本が大好きな私に、妻は私が日本に長くいすぎたと言います。でも、日本は素晴らしい国です。戦後の何もないときから、資源もないのに30年間で世界で2番目のパワーを持つ国になりました。私が日本から学んだことはハードワークでした。戦争のことは問題外です。どこにでも良い人も悪い人もいるものです。」
若い人への言葉
「日本では仕事をみつけるために大学にはいくけれど、大学生はあまり勉強しません。講義でも学生の反応がありません。フランスでは違います。ゼミの間でも学生が話す話す、ゼミが終ると議論を続けるために生徒が先生を喫茶店に誘います。UBCはその中間でした。楽しかったですね。
先日、愛知淑徳大学で講義をしましたが、最近は日本も少しずつ変わってきていると感じました。生徒が質問したり意見を言ったりするようになってきています。」
サンジャック氏は、高校卒業した頃、医者になるために勉強をはじめました。しかし1年後に転向して弁護士になろうと思います。けれど結局、言語学や社会学のほうに進みました。
「自分にどんな天分があるか、何をしたらいいかをよく見極めることが必要です。決める前によく考えなければなりません。好きなことでないとモティベーションがなくなります。そうでないと会社に入ってもつまらないだけです。とにかく興味のあることを選べば、進むのが大学である必要はありません。専門学校でもよいのです。
ただ、おもしろいのは、自分が選んだことが実現されるとは限らないということです。生きている間に別のチャンスがでてきます。どの道を歩むようになるかは、偶然による場合が大きいのです」
英語を習うことについては――
「言葉を習うには、2つのことが必要です。動機と機会。使う機会がないとモティベーションもわきません。また、言葉を習うときは同時に文化を学ばないといけません。日本の学校では、音声学と文法のみで教えようとしているので、英語が身につかないのです」
現在サンジャック氏はバンクーバーに拠点をおきながら、あちこちで開かれる学会や講義に飛び回っています。
Dr. Bernard Saint-Jacques
愛知淑徳大学での講義中