竜を家に連れて
第2回
第一章.ブラックホールを交差したランナー
ー遅れてきた、津軽アイヌ
キロス田中桜子
出会い(2)
私が三歳になる頃まで両親は祖父母の木造の家の二階の診療所で共働きしていた。万代町の電停が診療所の向かいにあり、路面電車が通るたびに祖母の家は地震のように揺れた。通りも揺れた。朝六時前から晩の十時過ぎまで、近隣を揺らがして電車は通っていた。電車が止まると、道路に降りて来る人の中には、しばしば診療所に通う者の姿が混じっていた。夏には、日が昇るともう既に診療所の前に患者の列が出来、しばしば診療時間が終わっても一階の祖父母の家の玄関を、頬に片手をあて痛みをこらえながら叩く人々の姿が見られた。祖父の田中一(はじめ)はどんな来客も丁寧に扱った。しかし「父さん、だめだよ、オレもう一杯やっちゃったから」と居間から釘を刺す父の声に、祖父は何とか帰ってもらうように患者に頼む。広い電車通りを脇に入った小さい道の、八百屋さんの向かいに面した玄関を上がると、木の引き戸で仕切られているだけの畳八畳ほどの居間があり、夕食時には卓袱台のまわりに家族が集った。無理を承知で玄関に回った患者の多くは祖父の代からの顔見知りで、手土産に畑の野菜や魚や酒を持参してやってきたので、門前払いは無理というものだった。幼い私をひざの上にのせてビールの入ったコップを口に運ぶ父に代わって、母が渋々ながら診療室に上がることがままあった。こうして「海岸町の田中歯科」は週六日、時には夜明けから日暮れまで灯りが消えないほど繁盛していた。
祖父母の質素な家には当時祖母カネ、父の妹キミ、キサ、曽祖母のキクが同居していた。父と母は卵を行商していた馴染みの御婆さん夫婦の家の二階を借りて住み、そこから通っていた。祖母が作る料理はカレーでもお雑煮でも甘みが強く、味が濃くけして上品とは言えなかったが、父はいつも文句を言いながら食べていた。四十代で中風にあたった祖母は足をひきずりながら家事をしていた。祖母の手は以前破傷風にかかって、何本か指が短くなっていた。祖父の代に診療所を手伝っていたのだが、技工室も素手で掃除していたため、鉄くずなどが爪の間に刺さり、ひどく化膿してしまったのだ。それでも祖母は昼間私のめんどうを見ながら、お勝手をまかない、家族を助けていた。
函館は、干しイカと、潮とさび付いた桟橋の匂いが風に混じる海の町だ。あの頃、地元の漁師は夜中、灯りをいっぱいつけたイカつけの船を出し漁に励み、朝早くから取れたてのイカを売るイカ売りの声が町中に響いた。朝市には名物のイカの真っ黒な姿が並ぶ。しかし父は、「イガー、イガー!」と荷を引くイカ売りの声が聞こえる前に、薄暗い桟橋に出かけて、釣り糸をたらすのが好きだった。診療所から歩いて六、七分ほどの中央埠頭には、いつも顔なじみの近所の釣り人が出ていた。三十分も立たないうちに、カレイやら鯖やら、時にはソイなどを二、三匹吊り上げて帰ってくることもあった。時には晩酌前の少しの時間に幼い私を連れて埠頭に行くこともあったが、自分が釣った魚は変にダンディーぶってけして食べない人だった。「俺は魚食うのはうまいんだ。子供のころからおふくろに、骨だけ綺麗に残して食べる子は出世すると言われて褒められた。」そんなことを言いながら、なかなか魚には箸をつけない人だった。
父は、散歩というと海の方によく連れて行ってくれた。ロシア船だの、珍しい船が港に着いたときなど、彼は子供のように無邪気な笑顔を浮かべて私の手を引きながら港を歩いたものだ。
海の向こうは、日本でなく、外国に真っ直ぐつながっているような、奇妙な錯覚を覚える函館の港。日本が鎖国をしていた時代に、外国に開かれていた数少ない貿易港でもあった。明治時代に、東京では舶来品を扱う「函館屋」とか言う店が繁盛したと言われるほど新奇にとみ、多文化他民族を受け入れ、ロマン豊かで活気に満ちていた町。そんな函館に生まれ育った父が私の名前を「桜子」と名づけたのは、私がいつか外国に行ったときに、国民に愛される桜の花の如く「日本人だと分かってもらえるように」と願ったからだと聞かされた。