1846年、オレゴン条約により北緯49度線をもって、BC州とワシントン州の国境とすることが決まった。
ロッキー山脈の西側、カリフォルニア(当時スペイン領)の北、アラスカ(当時ロシア領)の地域は、18世紀までは、英国、スペイン、ロシア3国が探検隊を派遣して調査・領有宣言をしていたが、いわば世界の空白地帯であった。しかし、その地位の制海権を握っていた英国が、キャプテン・バンクーバーに命じて沿岸の精密な測量をさせる一方、毛皮を求めて、陸路マッケンジー、トンプソン、フレイザーらがロッキーを越えて太平洋岸に到着した。それにより、その地域の英国の権益はもっとも強いものとなり、ハドソン・ベイ・カンパニーは、フォート・バンクーバーなど各地に拠点を設けていた。
一方、アメリカ側も、クラークやルイスが1804年にセント・ルイスから陸路太平洋岸に到着して以来、この地域に進出して来た。
1810年、米英両国が、五大湖以西の大平原地帯の国境は49度と定めたとき、ロッキーから西のこの地域は米英の共同領有地とされることになった。1830年代になると、ミズリー州インデペンデンスからワイオミングを経てオレゴンに至る道路が開発された。いわゆるオレゴン・ルートである。以来、アメリカ人の入植者も漸増し、米英両国の権益がしだいに対立するようになってきた。
1844年、大統領選に領土拡張論者のジェームス・ポークは、54度40分か戦争か(Fifty four-forty or fight)という調子の良いスローガンで出馬して当選した。公約を守るために、直ちに英国側と折衝に入ったポークは、バンクーバー島を除いた大陸部は49度で国境にするという線で妥協し、オレゴン条約の締結となったのである。そのとき、現在のポイント・ロバーツが49度以南にあることを忘れ、条約の特記事項に加えられなかったため、今も僅かなことで、交通にいちいち検問を通らねばならぬ破目になっているが、これは余談である。
かくして、一時は再び戦争かとも懸念された両国の間も平和な関係を維持することができた。
太平洋岸はその豊富な資源をもとに、次第に人口も増え、相互に連絡する必要が生じるようになった。1904年にはシアトル・バンクーバーを結ぶグレート・ノーザン鉄道が完成し、鉄道の国境線上にシンボルとして、木造のアーチが設けられた。
1915年ハイウェイが建設され、自動車による往来が可能となると、ピース・アーチの設立運動が始まった。
現在の49度線上に立つピース・アーチは、1920年に着工、21年の9月6日に竣工、翌年の9月6日にはフランスのジョフル元帥を平和使節として迎え、盛大な式典を行っている。
平和のシンボルとして、アーチのアメリカ側には、“CHILDREN OF A COMMON MOTHER”―同じ母(英国)より生まれたる子供たち、カナダ側には“BRETHREN EWELLING TOGETHER IN UNITY”―団結して生きる兄弟たち、と刻まれている。
ピース・アーチ・パークは、アーチを中心に南北2キロを緩衝地帯として、カナダからもアメリカからも自由に利用できる珍しい公園である。この場所で米加両国にまたがってバーベキューを楽しむのもまた一興と言えよう。