竜を家に連れて

第4回 第一章.ブラックホールを交差したランナー
ー遅れてきた、津軽アイヌ
キロス田中桜子

不在の人(1)

 父はお酒を飲んでいないとき、港町の桟橋のあたりから七重浜の方まで釣りによく出かけ、竿の持ち方、投げ方、浮きの動きの見極め方など、私に教えてくれた。学校とは違い、海辺では私はまったく自由だった。七重浜を歩くと晴れた日には夜景で有名な函館山の牛が寝そべったような姿が近くに見えた。「大昔はこの辺までしか、陸地がなかった。大門や海岸町のあたりも埋め立てして出来た。」この町の歴史の話などをしながら、父はピンク色や、青色の珍しい貝殻や石を集めては、私に見せた。「はい、これは地球石。」「これは火星石。」父は、小さな石の記憶を辿るように触れては、それぞれ特徴をつかんで名づけるのがうまかった。幼い私には、彼がマジシャンのように気取って差し出す小石は不思議な生命の息吹を発し、まるではるかな宇宙空間に漂っているようにさえ見えたものだ。

 父が言うように函館は大昔島だった。標高三百メートルそこそこの函館山は、かつて火山だった。しかし東西南の三方を海に囲まれる今の扇方の地形は、本州の津軽半島を挟んだ津軽海峡の潮の流れなどが、小さな山から噴出した火山灰や、河川の土砂などを少しずつ運び、長い年月をかけて浅瀬を次第に埋め立てて行き、形成された。以前は市街地を形成するあたりの大方は海で、人工的な埋め立て工事も計画的に行われて来た。もともとの地名は「ウショロケシ」、アイヌ語で「湾の端」という意味である。暖流と寒流の交差するこの湾の端は、先住の民アイヌにとっても、豊かな幸をもたらす良港だったと言われる。

 夏になるとこの七重浜のあたりは人気のある海水浴場だった。当時は日焼け止めクリームなど聞いたことがない時代で、子供たちは一日中カンカン照りの青空のもと、波と戯れ砂にまみれた。私たちは毎年のように七重浜で皮膚が水ぶくれになるほど太陽と遊んだものだ。潮干狩りも特別に何も用意してゆくのでなく、ただ浜辺で足を砂に突っ込んで動かすだけで生きた貝がいくらでも掘り出せた。だが同時に、「七重浜はおっかない。夜は絶対行くな。」と近所の大人たちに戒められた。亡霊に足を引っ張られる、と言うのである。  

 海難事故を防ぐための戒めの言葉だったのだろうが、実際七重浜は過去に悲惨な悲劇の舞台となった。一九三四年三月、函館は大火により当時の市街地の約三分の一が焼き尽くされ、二千人以上の人が命を落としたのだが、焼死体は七重浜に運ばれ、重なるように並べられた。浜が死体で埋まるほどだったという。そして一九五四年青函連絡船洞爺丸が七重浜沖で沈没。死亡者は乗客乗員合わせて一四三〇名、戦後世界最大規模の海難事故と記録された。目の前にすぐ陸地が見えたので、泳ぎきろうとした者は皮肉にも海流に押し戻され、泳げずに漂流したもののみが命を取り留めたと聞く。この浜には、そんな暗い歴史が眠っていたのだった。

 だがそれらの悲劇をさらに数世紀遡って、七重浜には血塗られた過去があった。歴史は繰り返すというが、まるで葬られた深い痛みの記憶が時折蘇るように、七重浜には幾重もの悲劇の層が横たわっている。十五世紀半ば、北海道が未だ「日本」ではなかった頃、ウショロケシの平和は破られた。一四五六年に志濃里(しのり)という村で和人(本州からの移住者)の営む鍛冶屋と、マキリという刀を注文したアイヌの少年が言い争い、鍛冶屋が少年をマキリで突き殺してしまう。この事件をきっかけに道南アイヌの首長コシャマインが一万とも言われる多勢のアイヌと共に立ち上がり、道南地方に和人勢力が築いた十二の館(たて)を次々と攻め落としてゆく。だが十の館を手に入れた後で、敵の巧みな戦術に勢いを奪われ、最終的にはこの七重浜近くで弓に射抜かれたと伝わる。

 中学にあがって間もないころ不思議な夢を見た。鮮やかな夢だったので、今でも覚えている。いつも遊んでいた家の近くの野原や鉄工場、建具屋や駄菓子屋などの見慣れた風景が急に見知らぬものとなり、見たこともない不思議な藁葺き屋根の家が建っていた。屋敷というのか、小屋なのかわからないが、中では男たちが壁伝いにぐるりと座って飲み食いしていた。楽しげな様子で、宴のように見えた。しかし藁葺きの屋根の片隅で、屋根の端に身を隠して、下の様子をじっと伺っている何者かがいた。この者は集いの場にすっかり酒が入ったところで、何かが運ばれるタイミングを計っていた。毒が盛られたのかもしれない。そして何かの合図とともに、屋根が落とされ、火がつけられた。そこで、夢から覚めた。一体何を意味する夢であったのか、不思議に思った私は、変わった夢を見ると必ず家族に話しをしていた父に尋ねた。その時はじめて「コシャマイン」の名前を父から聞いたように覚えている。父は、大昔このあたりでおこったアイヌの戦いについて、「アイヌは和人のだまし討ちにあって負けた。」と言っていた。

 その後書物で十五世紀に起こった道南アイヌの大規模な武装蜂起、コシャマインの乱について読んだ。戦いの経緯や成り行きには言い伝えで諸説があるようだが、当時私が目にしたどの本もコシャマインの乱以降道南地方のアイヌは同化され、いなくなったと書かれていた。もう函館にはアイヌはすっかりいないことになっていたのだった。

Posted by staff on 5 月 13th, 2009 and filed under キロス・田中桜子, 竜を家に連れて. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response by filling following comment form or trackback to this entry from your site

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