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あの日から8ヵ月 岩手県釜石市・大槌町を訪ねて

「大槌町健康サポートセンター」の上棟式、昔ながらの紅白の餅まき風景が展開され、笑い声が響いた。

AMDA Canada 顧問 石井常子

各農家の軒先には大根が干され、秋の錦をまといはじめた裏山を背景に柿がたわわにオレンジ色に輝いている光景を楽しみながら、民話の宝庫、遠野を過ぎ、いくつかのトンネルを過ぎると、列車は釜石に到着した。

駅前の新日鉄製鉄所の煙突からは白煙があがり、普通の町の様相を呈していた。が、車で3、4分走ると全身硬直した。軒並み崩壊した店舗ばかり。宿としたサンルート釜石ホテルも改修工事中での仮営業。かろうじて暖房が入ったばかり。まだ館外との電話連絡も出来ない状態であった。

ホテル周辺にいささかの建物は残っているものの、何かしらの損傷がみられた。そして更に海辺のほうに足をむけると、荒廃した空間だけが残っていた。惨状に圧倒されながら歩いているうちに、日も沈んで真っ暗闇に一人残され、表現できないほどの不気味さに襲われた。ホテル周辺では今も満潮時に水が入るという。

翌日の11月13日は、釜石市からバスで30分ほどの大槌町を訪れた。曲がりくねった山合いの道端には、こんなところまで?!と信じられないような場所に錆びて打ちのめされた車が流されていた。

AMDA大槌町健康サポートセンター棟上式

どんよりとした雨空の下、AMDA(Association of Medical Doctors of Asia)支援、「大槌町健康サポートセンター」の上棟式が執り行われた。どこからともなく50名くらいの町民が集まり、昔ながらの紅白の餅まき風景が展開され、笑い声が聞かれ笑顔が見られてほっとしたひと時であった。餅とともに投げられた5円玉は 町役場前で会議中に犠牲となった加藤大槌町町長が個人的に貯めていた5円玉であった。

AMDAのモットーは“相互扶助~困った時はお互いさま“。折からAMDAはタイ洪水の被災者救助支援を展開しており、小さな募金箱が置かれていたが、その募金箱にご自分自身が被災者でもあるにもかかわらず、募金する人達の姿を見て、胸が締め付けられる想いだった。

午後はAMDAの現地職員が大槌町を案内してくれた。瓦礫はほとんど撤去され、土台だけが残っている壊滅した大槌町が広がっていた。町役場の時計は津波が襲った3時15分29秒で止まったまま。

地震直後、町長や職員が津波対策本部会議中、津波にさらわれた町役場の前の現場には、ささやかではあったが、それだけに非常に重い意味をもった花束が添えられていた。崩れ落ちた公民館では、70歳はすぎているであろう男性が3月11日に何が起こったのかを一人でも多くの人に知ってもらいたいと話かけていた。彼は震災後毎日毎日朝から晩まで、自分に出来るのは人に事実を伝えることしかないと言って、訪れる人、一人一人に話かけているという。彼は今日もまた寒空の下、同じように語りかけているのであろうか?胸が痛む。誰が置いたのであろうか?公民館の傍には日の丸がひとつ、風に寂しくなびいていた。

我が家があったところに向かっているのであろうか?小さな花束を持ってとぼとぼ歩く老人。その後ろ姿に込み上げるものを抑えきれなかった。

AMDA大槌町健康サポートセンター棟上式

津波襲来時に1500人の皆さんが獣道を必死で登り避難したという城山から見下ろす、一面壊滅の大槌町。沢山の遺体がぶらさがっていたという橋。息途絶えた赤子を抱いて呆然と立ちすくんでいた若い夫婦がいたという道端。700~800メートルも押し流された寸断されたコンクリートの防波堤。こんなにも巨大なコンクリートがこんな遠くまで押し流されるという津波の恐ろしさに震撼とした。

案内してくれたAMDA職員も漂流する瓦礫の中、必死で4つの命を助けたという。“賀奈あ!賀奈あ! もういいからあがれぇ~! 賀奈あ!“と怒鳴る友人たちの声を耳に、とにかく必死だったという。できることならもっと助けたかったが限界だったと涙ぐむ。“必ず助けにもどるからここで動かずに待っておれ!“と言われた愛犬は、じっと寒さのなか主人の戻るのを待ったという。犬に約束したので、何が何でも自分は生きていなければならないと自分に言い聞かせたことが励みになって生き残れたと彼女は言う。号泣をこらえ、ただただしっかりと彼女を抱きしめるだけで何も言葉にすることができなかった私であった。                (2月号に続く)

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