ひろがるアラブの春
リビアに、本当の春はいつ来るのだろうか
2010 年12月、チュニジア中部の町で26歳の若者が警察の横暴に抗議して焼身自殺をした。この事件をきっかけに政府に対する不満が爆発。政権はあっけなく崩壊した。チュニジアの国花にちなんで「ジャスミン革命」と名づけられたこの革命の勝利によって、反政府運動はアラブ世界の中に瞬く間に広がり、20に近い国々で反政府運動、民主化要求運動が勃発した。その多くは政府によって鎮圧されたが、いくつかの国々は一定の成果をあげ、チュニジアとエジプトは政権が崩壊、そしてまた今、リビアも世界最長の42年続いたカダフィ政権が崩壊した。
こうした一連の反政府運動・民主化運動を『アラブの春』と呼ぶ。しかし、革命成功後のチュニジアもエジプトも、事態は依然混沌としていて社会の安寧は遠い。
新たに反政府運動が勝利したリビアに、本当の春はいつ来るのだろうか。
反政府軍首都制圧からの1週間
8月22日
- トリポリ南部で激しい銃撃戦。政府軍がスカッド型ミサイル3発を発射。
- トリポリにあるリビア国営テレビを反体制派が制圧。
- カダフィ大佐の次男、セイフイスラム氏が反体制派による首都制圧を否定。
- オバマ米大統領が休暇先から、カダフィ体制が終わりに近づきつつあると緊急声明を発表。カダフィ政権崩壊後もNATOなどの同盟国とリビア国民の安全を守り続ける、と述べ、国民評議会による民主主義への平和的移行を求めた。(国防総省は「地上軍を派遣する計画はない」と発言。)
- 国民評議会は、トリポリの完全制 圧はいまだできていないと発表。
8月24日
- 反体制派は、リビア国土の90~95%を掌握したと発表。
- 国民評議会は、実業家グループによって200万ディナール(約170万ドル)の懸賞金がカダフィにかけられたことを発表。また、カダフィ大佐を殺害または拘束した場合は、大佐の側近であっても特別に恩赦を与える、と発表。
- 数日中に、国民評議会のすべての機能をベンガジからトリポリへ移動させると発表。
- 国民評議会が40カ国以上から、リビアの正式な代表と認められた。
- 政府軍によって拘束されていた外国人ジャーナリスト30人が解放。
- イタリア人ジャーナリスト4人がカダフィ派に誘拐された。
8月25日
- トリポリでは反体制派によるカダフィ派掃討作戦が続き、カダフィ支持派の抵抗で一部地区で激しい銃撃戦となった。
- カダフィ大佐はシリアのテレビを通じて「反体制派のネズミたちと戦え! 偉大なトリポリを守れ」と徹底抗戦を呼びかける新たなメッセージを発表。
- トリポリ市内のカダフィ大佐の住居が公開された。地下には複数の市内に続く通路、多数の電話が設置された部屋があり、大量の食糧などが備蓄されていた。
8月28日
- 反体制派が首都トリポリをほぼ制圧。
- カダフィ派の軍事拠点、トリポリ国際空港を制圧し、市内からカダフィ派をほぼ排除した。
- カダフィ派が管理していたチュニジアとの国境を反体制派が制圧。物資の不足しているトリポリへの食料輸送が拡大する可能性がでた。
- NATO軍は3日連続でカダフィ派が制圧するシルトを空爆。
8月29日
- カダフィ大佐のスポークスマンが、カダフィ大佐が反体制派との交渉の意向があることを発表。国民評議会幹部は、「カダフィと話す唯一の条件は、彼が投降したとき」と応える。国民評議会は、カダフィ大佐およびその一族に対し、拘束してリビア国内で裁く姿勢を崩していない。
- 反体制派は、カダフィ派が掌握している大佐の出身地シルトに進軍。東西から挟撃する態勢をとっている。
- カダフィ一族は依然行方不明で、シルトに潜伏している可能性もある。
国民評議会への政権移行に向けた動き
アフリカ連合
カダフィ大佐はアフリカ連合の「生みの親」を自認。最大の資金提供者であった。
◆ 8月27日 「アフリカ連合は、憲法に基づく正式な手続き以外の方法に よって政権についた勢力を加盟させないため、国民評議会を承認することはない」(南アフリカ、ズマ大統領の談)しかし8月28日時点で加盟国54カ国のうち、20カ国が承認した。未だ未承認の国
- ニジェールは、このリビア革命で20万人に上るといわれる出稼ぎ労働者が帰国を余儀なくされ、経済的にも困窮を極めていると言われる。
- スーダンは、ダルフール問題などでリビアと複雑な関係にあったため、早々と国民評議会を承認してカダフィ政権が延命したときに報復されることを恐れたため、という見方がある。
アラブ連盟
カダフィ統治下のリビアは、連盟のメンバー資格を停止されていた。
◆ ほとんどのアラブ諸国は、国民評議会を正当なリビアの代表として承認した。(アルジェリア、シリアなどは認めていない。)リビア連絡調整グループカナダや日本を含む30カ国が参加。今年4月、リビアと国際 社会を結ぶ窓口として作られた。カダフィ政権による人民弾圧の即時停止を要求。
◆ リビア国民評議会をリビアの代表として承認。国民評議会代表が凍結資金の解除を訴え、グループはこれに同意した。
◆ 25日、トルコが国連に対し、凍結されているリビア資金の解除を呼びかけた
◆ 26日、国民評議会は、国連に国民のために緊急に資金が必要であるとアピール。国連は、国連制裁委員会でアメリカ国内で凍結しているリビアの資産約1000億ドルのうち15億ドルを解除することを承認。
◎この資金は、電気の復旧や食料の供給、人道的な目的のために使われることになっている。
◆ イタリアは独自に凍結資金5億300万ドルの解除を発表。
まだ終わっていない
リビア共和国 近代の歩み
1911年
イタリア王国がリビアを植民地化。サヌーシー教団のオマ-ル・ムフタールなどによる抵抗運動1932年イタリアによる完全平定。1945年第二次世界大戦後、英仏の共同統治領となる。
1949年
リビア連合王国(キレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの3州)成立
1963年
連邦制の廃止。リビア王国となる。
1969年
クーデターによりリビア共和国が成立。カダフィ大佐が元首となる。
政治体制: 直接民主制。政党は存在しない。理論上元首は存在しな いが、カダフィーが事実上の国家元首として国政の実験を握っていた。 (称号は革命指導者。)
1985年
ヨーロッパでのテロ事件により経済制裁を受ける。
1986年
アメリカ軍によるリビア爆撃
1988年
報復としてパンアメリカン航空爆撃。
2001年
それまで反米・反イスラエル強硬派であったが、同時多発テロ移行、 アメリカとの協調路線に移行。親アラブから親アフリカ外交へと移行。
2011年
カダフィ大佐の辞職を求める小規模デモが発生。これに各地で体制に 不満を持つ民衆と反政府勢力が呼応し、反政府集会が行われた。これに対して政府軍および外国人傭兵部隊による空爆を含む武装鎮圧が行われ、内戦状態になった。
3月にはNATO軍による政府軍に対する空爆が始まった。
カダフィ政権崩壊後に残された不安
「リビアがイラクのような混沌とした状況に陥ってしまうことを心配している。反政府軍を構成するのは、自分たちの出身地を第一義的に考える人々や、パルチザン的な気質の反政府勢力によって成り立っており、そうした事から、暫定国民評議会の多くのリーダー達が1つのテーブルにつくのはむずかしい」 (ロシアの東洋学者ユーリイ・ズィーニン)
米英仏3国は、カダフィ政権が所有していた資金や武器が国外に流出しないよう、隣国との国境の警備体制を強化するように主張している。とりわけ、反カダフィ勢力の半分以上が国際テロ組織アルカイダのメンバーであるという噂もあり、毒物兵器などがアルカイダの手に渡ることを危惧している。
カダフィ大佐 という 男
1942年
リビアの砂漠のベドウィンと いう部族に生まれる。エジ プト革命を成功させたナセル に影響を受け、反西洋、 反キ リスト教思想を強くした。
1956年
スエズ危機で、反イスラエル 運動に参加。
1961年
陸軍士官学校に入り、自由 将校団を組織してサヌーシー 王朝打倒を計画した。
1969年
同志とともにクーデターを決 行し、当時トルコにいたイドリース国王1世を退陣させて 無血革命を成功させた。カダフィは暫定憲法によって最高政治 機関となった革命指導評議会の議長となった。
1974年
政治理論の研究のために議長権限をナンバー2のジャルード少佐に移譲。
1977年
人民主権確立宣言で初代の全国人民委員会書記長に就任。
1979年
書記長を辞任。以後今年8月まで実質上の元首として君臨。
1988年
パンナム機爆撃事件(270人死亡)の首謀者とみられる容疑者の引渡しを拒否したため、米国との関係が悪化し、レーガン米 大統領から「テトリスト」「砂漠の狂犬」などとののしられた。
1986年
アメリカがリビア爆撃を行いカダフィ邸を空爆。本人は外出中(あるいは、建物の地下トンネルから脱出)だったが、当時邸宅にいた幼い養女が犠牲になった。 サヘル・サハラ諸国共同体を作りアフリカへの影響力を伸ばした。
1999年
アメリカによる経済政策を受けて、パンナム爆撃事件の容疑者のハーグ国際法廷への引渡しに応じる。国家としての関与は否定したが、公務員の起こした犯罪故に、27億ドルの補償に合意。この頃から対外的には穏健になってゆく。
2001年
イスラム過激派の封じ込めのために、9.11アメリカ同時多発テロに対して激しく非難した。2003年核を放棄することを宣言。査察団を受け入れた。これにより、アメリカの経済制裁解除が行われ、テロ国家指定から外された。
2006年
アメリカと国交正常化。
ムアンマル・カダフィの思想
ジャマーヒリーヤ(=イスラム社会主義
エジプトの元ナセル大統領の汎アラブ主義を信奉し、イスラム、民族主 義、社会主義を融合させた特殊な考えももっていた。
この思想をまとめて「緑の書」という本を出版している。
パレスチナ解放機構の支持者であり、1970、80年代には、対イスラエルの過激派テロを支援したという疑いがもたれている。
突飛な発言と奇行
外遊先では常に大使館の庭にテントを張って宿泊。そこにで首脳会談を行ったり海外メディアと会見したりする。1989年の非同盟諸国首脳会議ではラクダを空輸した。
国際会議で、「イスラエルをアラスカに移してしまったらよい」と発言した。
国連安全保障理事会のことを「テロ理事会」と呼び、壇上から国連憲章を投げ捨てた。(安保理事国のみに拒否権が与えられていることは、加盟国の平等を謳った国連憲章に反するというのが理由。)
国連演説は持ち時間15分にもかかわらず1時間36分にわたった。「タリバンは宗教国家が作りたかったのだから、バチカンのように作らせてやればいいではないか」と発言。
1988年、囚人に恩赦を与えるとして、自らブルドーザーを運転して刑務所の壁を破壊し、400人を自由の身にした。
日本から、ラブホテルなどで使用されている回転ベッドを輸入して自宅で使用していた。
1982年、PLOのアラファト議長に対し、突然「アラファトが独身なのは彼がホモだからだ」と発言。アラファトは相手にしなかった。
1991年、中東和平会議でイスラエルとの和平交渉を批判し、「われわれがヒトラーの尻拭いをする必要はない」と発言。パレスチナ人をリビアから締め出し、イスラエルとパレスチナが「イスラチナ」というひとつの国家を作ればよいと提案した。
1989年の米軍による自宅空爆についてテレビでアメリカ非難の演説を行った際、陸軍の軍人であるカダフィはなぜか海軍の軍服を着ていた。
2009年にイタリアを初めて友好訪問した際、植民地時代にイタリア軍に絞首刑に処せられた反植民地闘争の英雄オマル・ムフタールの写真を胸につけていた。
2009年の国連サミットで、各国代表が発展途上国の貧困に対するシンパシーの表現として断食を行ったとき、カダフィは500人のイタリア人美女を呼んでパーティを催した。
2010年ワールドカップ開催中、FIFA(国際サッカー連盟)のことを「選手の人身売買を行っている国際マフィア」と称した。「貧しい国から有能な選手を金で買って金持ちの国に売っている。FIFAはその人身売買で儲けてた金で、貧しい国でワールドカップ開催を援助すべきだ」と主張した。
【参考】http://english.aljazeera.net/news/africa/http://www.haaretz.com/news/middle-east/http://www.cnn.com/WORLD/http://www.cbc.ca/http://www.bbc.com/http://www.meij.or.jp/members/kawarabanhttp://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/news_j.htmlhttp://www.ntclibya.org/english/
photos are by courtesy of Aljazeera.