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インタビュー特集 2 シスター・エリザベス

第二次世界大戦の勃発と共に日系人が内陸部へ強制移動をさせられたとき、修道女たちは、1700人の日系人に付き添ってグリーンウッドに移り住みました。

さようなら フランシスコ修道院そして  ありがとう

シスター・エリザベス Franciscan Sisters of the Atonement

85年間の長きにわたってバンクーバー・イーストサイドで福祉活動を続けてきた聖フランシス修道院が、この夏、閉鎖されることになりました。これまで地域コミュニティのために献身的に活動を続けてきた修道女の方々は、8月末にはバンクーバーを去り、エドモントンに行くことになります。

オッペンハイマー公園の西側にあるフランシスコ修道院(Franciscan Sisters of the Atonement)の門口には、毎日ホームレスの人々の列ができていました。修道女を中心にボランティアの方々がホットミールを提供する、通称“サンドイッチ・ライン”です。ここは長い間、その日の糧を得られない人々のオアシスになっていました。

この修道院の活動は、1920年代から始まりました。戦前日本人街のあったこの地区で修道女の方々は、布教活動のかたわら日系人移住者に対する福祉活動として、英語教育や託児所などの生活支援を行っていました。

第二次世界大戦の勃発と共に日系人が内陸部へ強制移動をさせられたとき、修道女たちは、1700人の日系人に付き添ってグリーンウッドに移り住みました。そしてその土地に幼稚園や学校を建て、様々なクラブ活動を作るなどして窮地にある日系人のために献身したのです。

これからも人々のために…

シスター・エリザベスは、1998年から13年間、バンクーバー・イーストのコルドバで人々にフリーミールを提供してきたフランシスコ修道院の院長です。
修道院では、時期によって違いますがほぼ500食、週5日、その日の食事にありつけなかった人々に温かい食事を提供してきました。スープとサンドイッチ2個、スイートやフルーツ、ときにはヨーグルトなども用意していました。
また、寒さを防いだり仕事を得るために必要な男性用の服やワークブーツ、そして貧困家庭の赤ちゃんのためにオムツなども提供していました。同時に、勉強会なども開いていました。とにかくできることはなんでもやったと、シスターは語っています。

Q: フランシスコ修道院が閉鎖されることについてはどう思いますか?

シスター: ある意味ではとても悲しいです。でも、ここで働ける修道女がいないんです。人材がないので、私たち4人のうち一人でも何かあったら、もう立ち行かなくなってしまいますから。どうにもならなくなる前に、なんとかしなければならなかったんですよ。今、シスター4人でやっていますが、昔は8人から10人のシスターがいたのです。もちろんパートタイムのボランティアもいますけど、私たち4人ではもう無理です。私は87歳ですし、他の人たちも80歳と60歳。リュウマチもひどくなって、これ以上は無理なのですよ。

Q: この後シスターはどこに?

シスター: 私はエドモントンに行きます。以前ニューヨークでデイケア・センターを20年以上やっていたので呼ばれました。問題を抱えた子供たちがたくさんいるんです。彼らに必要なものを与えて、話を聞いてあげる人が必要なんです。周りの大人に問題があると、子供がひどい目にあいます。夜中に喧嘩してポリスが父親を連れて行ったり、母親がシェルターに入れられたり。そういった子供をたくさん見てきました。そういう子供の人生は壊れてしまいます。小さいときに環境に問題があるとその後の人生全体に影響しかねません。小さいときに基本的な教育がないと、高校を卒業するのも難しい。でも、子供たちは私たちの未来です。小さな子供に対する責任はみんなが持っているんです。
そいう子供たちと時を過ごすことが私の人生なんです。そうやって、これからも誰かの人生を少し変える手助けをしていけると思います。

Q: この13年間で、何か特別に思い出に残っていることがありますか?

シスター: フリーミールや服のほかに、低額所得者の人々にソーシャルハウジングを提供することもしてきました。子供たちにとってちゃんとした家があることは大事です。
本来そういったことは、政府がすべきなんです。いろいろなグループやエージェントの人々と、よく、市や政府がやるべきことを議論しました。貧困家庭の収入を増やすためにどうするか、など。政府の援助を受けている人々の多くは、食べ物を買うのにすら十分なお金をもらっていないんです。
ある男性のことを思い出します。彼は、ラジオで働いていた善良な人でしたが、退職してから年金が少なくて苦労していました。自分のアパートに住んでいたのですが、毎月200ドル以上の医療費がかかり、生活が困難だったんです。だからいつもホットミールランチタイムに来ていました。あるとき彼が入ってきて、野球チームを作ったら隣の公園で出来るのに、無理だろうか、というのです。きちんとした責任ある男性でしたけど、食費もままならない状態だったのでそうしたこともできませんでした。彼は、ときにはクロージングルームからの服も必要でした。
また他には、アルコール中毒を乗り越えて帰ってきた人もいました。その人は、「あなた方が自分の人生を救ってくれた」と言ってくれました。
そういった思い出がいくつもあります。

Q: 日系人に特別な思い出はありますか?

シスター: 私はよく仏教会に行ったの。オッペンハイマー公園をリノベーションするときには、彼らと一緒に計画を練ったりしました。公園側が桜の木を切り倒そうとしたとき、一緒に市に掛け合いに行ったりしたんです。日系人の皆さんがどれほど思い出を大事にしているかを知りました。すらばしいと思いましたよ。そんなこと市の人たちには思いもつかないことだったんですね。
日系人の皆さんとはいつも仲良しでした。

Q: エドモントにいくのはいつ? それまでに何か計画は?

シスター: 8月29日です。準備が大変。大きな場所だし、85年間のものがつまっていますからね。それらのものを全部必要なところにふりわけなくてはなりませんから。

Q : 後のことで心配はありますか?

シスター: あの建物をテイクオーバーしたバンクーバー大司教区が、今後もなんらかの形でフリーミールをやると言ってくれていますから。もし彼らがソーシャルハウジングまでやってくれたら、これほど嬉しいことはありません。それに、近くでユニオン・ゴスペル・ミッションが大きなフリーランチをやるので、人々が飢えることはないでしょう。とても喜ばしいことです。

シスターたちとともにあったグリーンウッドの日々

第二次世界大戦勃発と同時に強制移動を強いられ、日系人家族がばらばらになったり厳しい自然の中で過酷な重労働を強いられたとき、カトリック教会のクイグリー神父がグリーンウッドを訪れてマッカーサー市長に大勢の日系人の受け入れを自ら掛け合い、移動のときはフランシスコ修道女たちが日系人と共に移り住みました。

グリーンウッドに強制移動されられた日系人1700人が、強制移動キャンプの中でもとりわけて穏やかな生活を送ることができたのも、シスターたちの献身があったからに違いありません。

本誌は、1992年の「Home Coming '92」で日系カナダ人強制収容所跡地ツアーに参加したときのことを書いた、長谷川幹夫さん(元NKKバンクーバー所長)の旅行記を、1993年3月1日号に掲載しています。そこには、グリーンウッドについて以下のような文章が書かれていいます。

「キミコ、ハナコ姉妹がグリーンウッドに強制収容されていた時、姉のマサヨ浜西さんは日本語を学ぶために一時帰国していて、周囲の人々から『カナダにいる日本人はガソリンをかけられ焼殺されるらしい』と威されていた。グリーンウッドにいた妹たちは母親と一緒であったこともあり、当地の人たちはそんなに悪くはなかったと述懐している。森田勝義の『親日家ブライス』や『市長マッカーサー』についての叙述を見れば、グリーンウッドの人々は他のキャンプの地元白人たちよりは日系人に格段に好意的であったようにみえる。

このような事情をまさに反映した92年9月5日付の感謝状が、博物館に掛けられている。曰く『表彰状。バウンダリー地区日系カナダ人諸氏殿。皆様方は過去50年間にわたり力を合わせ、才能と能力を発揮し、忠実な市民として、また温情溢れる友人として、卓越した働きによって当地に貢献されると同時に、当地の私共の生活を実り豊かなものにしてくれました。因って当地に移住されてから50周年を記念し、感謝状を贈呈いたします。BC州グリーンウッド住民一同』」

グリーンウッドのシスターたち。

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