よみがえれ日本!
CatchLight360は世界中の出来事、事件を記録し、人々に知らせることを使命とするバンクーバーのPhoto Journalistたちのグループ。そのメンバー数人がまず、今年5月、東日本大震災の被災地に入り現状をつぶさに見た。これはその記録の一部である。
東日本大震災現地レポート
文・写真:CatchLight360
日本は地震、津波、原子力のトリプル災害で壊滅的打撃をうけた。他国ではこういった状況下では、暴動、略奪などが起きるが、日本ではそれが起きなかった。世界は驚き感銘した。、日本人はこうした危機的状況においても冷静に、秩序を保ち、礼儀正しさを忘れず、他人をも気遣い続ける美徳を持つ。最も困難な試練にけなげに対処する姿、日本人の高潔な品格、勇気、冷静さ、忍耐を、世界が称賛した。CatchLight360はこうした日本人の、パニックの中でも結束、連帯して復興に立ち向かう美しい姿を取材した。
◇東京から北へ…
このチームは毎年、日本に行っているが、今回は大好きな東京でぶらぶらせず、真っ先に新幹線に飛び乗り、一気に北に向かう。5月のすがすがしい空気の中、新幹線の窓に見慣れた風景が流れていく。東京駅で買った駅弁に席にすわるなりかぶりつく。
新幹線が埼玉の北を通るころ、カナダ人のTが、いつもこのあたりで胸がキュッとなるという、もしかして、この人の前世は日本人?
Tは、中東紛争、アフガニスタンにも取材にいった経験を持つ。田植えが終わったばかりの田んぼ、変わらない青い空、いつもと同じ光景が整然と続く中、今回は何か胸が重い。大災害で貴い命が多数失われたことを思い、悲しみで胸が引き裂かれそうだ。
◇宿探し
東北の宿、ホテルは混んでいそうなので、キャンピングカーをレンタルして回る予定だったが、超多忙で予約もできず、どうにかなるさ、と行き当たりばったりで仙台に着いた。案の定、仙台駅のホテルの予約所に行くと、どこもいっぱいとのこと。こんなにホテルがあるのに、とため息をついた。案内の人があちこちのホテルに頼みこんでくれ、やっとある高級ホテルが今夜だけキャンセルがでたので泊まれるというので、早速そこに向かう。そこで、明日も泊まりたいというと、明日から予約でいっぱいとのこと。
フロントの人も少し他のホテルをあたってくれたが、すぐにあきらめ、ホテルリストを差し出された。自分で探して下さいという。30ヵ所ほど、かたっぱしから電話をかけまくったが、どこも満室。全国から保険会社、建設会社、警察、消防関係者が長期でとまり、近くの温泉街の宿もいっぱいだ。やっと、ユースホテルがただひとつ空いていた。ひとまず泊まるところは確保できた。
早速、仙台空港行きのバスに乗る。道中の田んぼには、津波で流れてきた瓦礫がいたるところに散らばっている。小型飛行機の残骸、つぶれた家、ひっくりかえった車、濁流に飲まれた跡がそこら中に残っている。10メートル以上積み上げられた瓦礫の山がいたるところにある。仙台空港は米軍と自衛隊による物資輸送の最重要拠点ということで、最優先で復旧し、1日数本の運行が再開されている。そこには、『がんばろう、宮城、がんばろう、東北』のスローガン、寄せ書きが壁いっぱいに書かれ、千羽鶴もあちこちにある。滑走路も飛行機も水につかり、人々が屋上に逃げたTVの光景が瞼に浮かび、肌寒さが身にしみる。
◇避難所
次の日は、早朝、仙台からバスで石巻市に行った。普通はJRで30分ぐらいだが、線路が数ヵ所切断され、復旧の見込みがたってないとのことで、バスで1時間20分ぐらいかかった。
石巻市が市としては今回の地震、津波の被害が一番大きかった。市役所に行くと、行方不明者の名簿が壁に所狭しと貼られ、死亡通知、仮設住宅申し込み、各種の申請でごったかえしている。私たちは4階に行き、避難所を回る取材許可を申請した。そこでは、どこの避難所に行くといいなどといったことを色々と親切にアドバイスしてくれた。そこに偶然いた中田さんという男性が、ちょうどこれから避難所に行くところなので、自分の車で連れていってあげるとのこと。石巻市で一番大きな避難所に連れて行ってくれた。
中田さんは東京から避難所にマッサージの器具を設置しに来て、避難している方を癒している。皆、家族を失った悲しみや不便な生活で、不眠症、精神不安等、様々な病気になっている。体育館は4畳半ぐらいの空間に何十個にも仕切られ、約600人の新しい我が家になっている。段ボールで仕切って家族単位でくらしている。色とりどりの毛布を敷きつめ、小さなテーブルでご飯を食べ、昼間はそこで新聞を読み、みんなとしゃべり、夜はそこで寝る。小さな、一見、快適そうにも見える生活空間を作っている。下の柔道場や理科教室、家庭科教室等も避難家族の住みかになっている。
体育館のステージは全国から集められた救援物資、本、衣類などが置かれ、また、市役所や各団体の世話係の人のオフィスにもなっていて、そこから、連絡事項が放送される。今は、ペットボトル水、パン、日替わり弁当が十分配給されている。そこで、市の臨時職員に任命された津野さんが、私たちの要望を受け入れ、地震、大津波のことを詳細に話してくれ、また色々なご家族を紹介してくれた。
◇そのとき
津野さん自身も地震があったとき、スーパーの野菜の仕分けの仕事をしていた。すぐにこれは普通の地震ではないと直感し、自転車に飛び乗り高台に逃げた。その後、30分ぐらいで津波がきたが、無事に逃げおおせた。海岸に近い自宅は、まだ立ってはいるものの、濁流が2階まであふれて瓦礫でいっぱいだ。高齢の両親は近くの島に住んでいたが、動けなかったのでヘリコプターで救出され、日赤病院に運ばれた。仕事場から車で帰ろうとした女性の何人かは津波にのまれてダメだった。今は会社も流され仕事もない。面倒見のいい方で、市役所の臨時職員として、毎日、被災者の方々の仮設住宅のお世話、食事、修理、お年寄りの話相手となり、献身的に皆様のお世話をしている。
また、そこの避難所の石井さんご一家は、奥さん、奥さんの両親、子供3人の6人家族で、海のすぐ近くの300坪の古い大きな家に住んでいた。地震の日はちょうど次男の中学の卒業式で、奥さんはケアセンターの介護のパートを休んでいた。そこの同僚2人も流された。午前中、卒業式に出て、次男はお昼を食べた後、友達の家に遊びにいった。3月11日の2日前、3月9日は次男の高校受験日で、かなり大きな地震があった。今から思えば、それが大地震の前兆だったのか。そして、2日後の午後2時46分、あの大地震が起こった。
家の近くの門脇小学校に末っ子の娘さんがいるので、石井さんは心配ですぐ学校にいった。その小学校が指定の避難所にもなっていたが、先生たちは機転をきかし、生徒たちを校庭に集め、上の日和山に避難させていた。おばあさん、おじいさん、奥さん、末っ子が、日和山に逃げた。しかしおじいさんは友達の所に遊びにいった次男が心配で、山から下りて自宅に見に行った。そのとき、海から真っ黒い重油のような津波がどーっと押し寄せた。巻き込まれたおじいさんは今だに行方不明。車で逃げようとしていた人たちも車ごと真っ黒な濁流にのみ込まれた。それを、山の上から、なすすべもなく見ていなければならなかった。工場から出た火事が門脇小学校のあたり一面に広がって、一帯は津波と火事の地獄絵と化した。その津波は今までに経験したこともない大津波で、家の2階まで押し寄せた。
その後、日和山から高台の門脇中学校までみんなで逃げた。そこは、石巻市の指定避難所で、ずぶ濡れで、命からがら逃げてきた何千人もの人々でいっぱいになった。3日3晩、街から水がひかず、数日間、水も食料もなく、体育館の中でみんな雪の降る寒い中、震えてすごした。おじいさんは津波にのまれたのか未だに見つからない。高校3年の長男はおじいちゃん子で、学校の帰りに毎日おじいちゃんを捜しに、もとの家のまわりを歩いている。そのおじいさんの弟さんの遺体が、昨日1km先の日本製紙の工場のあたりで見つかったとのことで、まだ長男はおじいちゃんが見つかるかもしれないと希望を持っている。おばあちゃんはもう涙もかれて出ない。(つづく)
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